今の世の中では、少しの失敗でもすぐに「ミス」「エラー」「不手際」と、無機質な言葉で片付けられてしまいます。
けれど昭和の頃、私たちの失敗には「チョンボ」という、どこかユーモラスで逃げ場のある言葉がありました。
「エラー」には体温がありませんが、「チョンボ」には、必ずうっかりした本人の顔がセットで思い浮かびます。
だからこそ、怒られながらも、どこか人間臭さが残っていたのかもしれません。

チョンボという言葉が持つ、独特の語感
「チョンボ」はもともと麻雀用語で、ルール違反や勘違いによる失点を指す言葉です。
そこから転じて、日常のちょっとした失敗全般を表す言葉として使われるようになりました。
ポイントは、「取り返しのつかない大失敗」ではないこと。
隠そうとしても隠しきれない、そして言い訳も苦しい――そんな身近で人間的な失敗です。
「チョンボしちゃった……」
この一言には、
・決まりの悪さ
・反省
・そして、どこかの「許してもらえるかも」という甘え
が、全部詰まっていました。
街のあちこちに転がっていた「チョンボ」
昭和の暮らしを思い返すと、チョンボの風景はいくらでも浮かびます。
買い物を頼まれて、お釣りを落としてしまう。
草野球で、誰でも取れるフライをポロリと落とす。
仕事で、手順を一つ飛ばして親方に睨まれる。
今なら報告書や再発防止策が必要かもしれませんが、当時は違いました。
「何やってんだ、チョンボだぞ」
「次から気をつけろ」
怒鳴られることはあっても、あとに引きずらない。
雷が落ちて終わり、あるいは笑われて終わり。
その潔さが、当たり前のようにありました。
失敗が許された「遊び」と仕事の空間
不思議なことに、あの頃の大人たちは仕事には厳しかったのに、チョンボにはどこか寛容でした。
真剣な顔で仕事をしている人ほど、裏では案外チョンボをしている。
それを誰かに指摘されて、頭をかきながら苦笑いする。
「人間だから、失敗くらいするさ」
そんな言葉を口にしなくても、空気として共有されていた気がします。
だから子どもも、失敗を恐れすぎずに挑戦できたのかもしれません。
まとめ:言葉が消えると、心も窮屈になる?
今では、失敗はすぐに「不適切な事案」「重大なミス」として扱われます。
確かに正確さは大切ですが、その一方で、笑って済ませる余白はどんどん減っているように感じます。
「チョンボ」という言葉が消えていくのは、
単なる言葉の変化ではなく、私たちの暮らしから余裕が削られているサインなのかもしれません。
たまには、
「ああ、チョンボしちゃったな」
と苦笑いしながら立て直すくらいの、人間らしさがあってもいい。
完璧ではないからこそ、次に進める。
そんな不完全さを許してくれた言葉――それが「チョンボ」だったのだと思います。
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