「ウザい」のルーツは江戸の「うざったい」?
最近の若い人たちが、ちょっとした面倒事や、干渉してくる相手に対して「あー、ウザい」と口にするのをよく見かけます。

この「ウザい」、実はもともとは東京の多摩地方などの方言「うざったい」が語源だと言われています。
草木が茂って「うっとうしい」様子や、肌に何かが触れて「気味が悪い」感覚。
それが1980年代後半あたりから、ツッパリブームや若者文化の中で短縮され、今の形になったようです。
昭和世代の私からすると、この言葉には少し「刺(とげ)」があるように感じて、使うのには少し勇気がいりますね。
「うるさい」から「面倒くさい」への変化
昔の「ウザい」は、物理的に「音がうるさい」「邪魔だ」という、はっきりした不快感に対して使われていました。
しかし、今の「ウザい」はもっと心理的な領域にまで広がっています。
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「あの会議、同じ話ばかりでウザい(=面倒くさい)」
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「このアプリ、通知が多すぎてウザい(=煩わしい)」
このように、「ヤバい」が感動の言葉に変わったのと同じように、「ウザい」もまた、自分の心の「ちょっとした波立ち」をすべて飲み込む便利な言葉になってしまったようです。
お節介と「ウザい」の境界線
私がふと思うのは、先日お話しした「お節介焼き」のことです。
独身の頃、親戚のおばさんに「早く嫁さんをもらいなさい」と言われた時、当時の私は心の中で「ウザいなあ」と思っていたかもしれません。
でも、今の時代はどうでしょう。 相手の領域に踏み込まないことがマナーになり、誰も「ウザい」と思われるような干渉をしなくなりました。
その結果、私たちは煩わしさからは解放されましたが、同時に「誰かに気にかけてもらう温かさ」も失ってしまったような気がするのです。
「お節介焼き」の記事でも書きましたが、今となっては、あの「ウザい」干渉さえも、実はありがたいものだったのかもしれない……。
還暦を過ぎて、そんな風に感じるようになりました。
店主の独り言:言葉の「毒」を抜いてみる
「ウザい」という言葉は、直接相手に投げつければ強い武器になります。
でも、自分の心の中で「あ、今自分は面倒だと思っているんだな」と確認するためのサインとして使うなら、それはそれで現代的な心の守り方なのかもしれません。
大切なのは、言葉の裏側にある自分の感情を、「死ぬほど」のような誇張表現で塗りつぶしてしまわないこと。
「ウザい」と感じた時こそ、「なぜそう思うのか?」を一歩立ち止まって考えてみる。
そんな心の余裕を持ちたいものですね。
……なんて、これもまた若者から見れば「ウザい」説教になってしまうでしょうか(笑)。


