「論破」という言葉に、違和感を覚えた日
いつ頃からでしょうか。
相手を言い負かすことを、
一言で「論破」と呼ぶようになったのは。
便利な言葉です。
でも、どこか軽い。
それに比べて、
「ぐうの音も出ない」という言葉には、
もっと身体的で、逃げ場のない重みがありました。

「ぐう」とは、いったい何の音なのか
「ぐう」。
これは、
喉の奥から漏れる、
苦し紛れのうなり声です。
言い返そうとして息が詰まったとき。
悔しさと戸惑いが入り混じったとき。
その「ぐう」すら出ない。
つまり、
言い訳の余地が1ミリもない状態を、
この言葉は見事に表しています。
口を開いたのに、言葉にならなかった瞬間
何か言い返そうとして、
確かに口は開いた。
でも、
言葉になる前に、
喉の奥で潰れた。
そんな経験はありませんか。
あの瞬間、
負けたというよりも、
自分の浅さが露わになった
という感覚の方が近かった気がします。
職人と父親の前で、立ち尽くした背中
昭和の家庭や職人の世界には、
「ぐうの音も出ない」場面が
日常的にありました。

祖父の仕事ぶり。
父の一言。
理屈で責め立てるわけでもなく、
声を荒げるわけでもない。
ただ、
筋の通った一言を置かれる。
その前では、
小手先の言い分など、
まったく歯が立ちませんでした。
あれは叱責ではなく、
本物を見せられた瞬間だったのだと思います。
「論破」と「ぐうの音も出ない」の決定的な違い
論破は、
相手を打ち負かすゲームです。
勝ったか、負けたか。
誰が上手だったか。
一方、
「ぐうの音も出ない」は違います。
言われた側が、
自分で「その通りだ」と認めてしまう。
そこには、
勝者も敗者もいません。
あるのは、
納得と沈黙だけです。
沈黙は、あとから効いてくる
その場では悔しい。
恥ずかしい。
できれば忘れたい。
でも、
不思議なことに、
あの沈黙は後から効いてきます。
何年も経ってから、
ふとした瞬間に思い出す。
「ああ、あの時の言葉は、
確かに正しかったな」
そうやって、
血肉になる言葉がありました。
まとめ:言葉を失う経験が、人を育てる
今は、
何でも言葉にできます。
説明も、反論も、検索もできる。
けれど、
時には
言葉を失うほどの正論に出会うことも、
必要なのではないでしょうか。
「ぐうの音も出ない」。
それは、
屈辱の言葉ではありません。
自分の未熟さを受け入れ、
一段階、成長するための合図。
昭和には、
そんな苦くて、ありがたい沈黙が、
確かにありました。
あわせて読みたい【絶滅危惧語】関連記事
『潰しがきかない』と言われた祖父の、鉄を打つ時の神懸かった姿。その圧倒的な熱量の前では、若かった私の小生意気な言い分など、まさに『ぐうの音も出ない』ほどに打ち砕かれたものでした。

