「では、私はこのあたりで——ドロンします!」
一昔前のテレビや漫画では、忍者が煙とともに姿を消すその瞬間、決まってこの言葉が使われていました。
それがそのまま 日常の「帰ります」や「失礼します」を表す言葉として広がり、大人たちの宴会や雑談でも、軽いユーモアを添えた立ち去り方として親しまれました。
しかし、時代が進むにつれ耳にする機会は減少。
今では 「絶滅危惧の昭和表現」と言っても大げさではないかもしれません。
今回は、「ドロンします」という言葉が生まれた背景と、なぜ消えつつあるのか。そして、この言葉に秘められた 昭和らしい遊び心の美学 を深掘りしていきます。
「ドロンします」の意味と語源
「ドロン」は、もともと 忍者が煙玉で消える際の擬音語。
漫画や特撮などの映像表現によって、「突然姿を消す」「気配を残さず去る」というイメージが定着しました。
その結果、
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「では、このへんでドロンします」
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「そろそろドロンと失礼して」
といった言い回しが、昭和の大衆文化の中で慣用句として使われるようになります。
興味深いのは、これが 戦国時代の忍者が実際に使っていた言葉ではない という点です。
歴史書に「ドロンします」の記録はありません。
つまり、テレビ文化が生み出した新しい日本語なのです。

昭和のテレビ文化が作った“言葉の伝播”
昭和40〜50年代、多くの家庭にテレビが普及しました。
特撮ヒーロー、時代劇、アニメが毎週のように放送され、子どもたちは夢中になりました。
画面の中で、忍者が煙と共に消える姿は、当時の子どもたちにとって強烈な記憶です。
その印象とセットで「ドロン」という擬音が心に刻まれ、遊びの中でも自然と使われ始めました。
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鬼ごっこで捕まりそうになって「ドロン!」
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帰り際にふざけて「じゃ、ドロンするわ~」
こうして子どもたちの間の遊び言葉が、
自然と大人の宴会や雑談にも持ち込まれる文化が形成されていった のです。
言葉がテレビから日常へ、そして世代を超えて広がる。
まさに「大衆文化と言葉の融合」を象徴する現象と言えるでしょう。
「立ち去り方の文化」——別れにも“温度”があった昭和
立ち去りの言葉には、時代ごとに特徴があります。
| 表現 | 主な使用場面 | ニュアンス |
|---|---|---|
| 失礼します | ビジネス/改まった場 | フォーマル |
| お先に失礼します | 職場 | 事務的 |
| お暇(いとま)します | 伝統/演劇/古い表現 | 丁寧だが硬い |
| ドロンします | 親しい場、宴会 | ユーモア、遊び心 |
「ドロンします」には、
“湿っぽさを避けつつ、場を和ませる” という役割がありました。
昭和の宴会文化では、「固くならず、笑いで締める」ことが美徳とされる風潮が強くありました。
つまり「ドロンします」は、ただ帰るのではなく、
“去り際まで楽しませる”というコミュニケーションの発想があるのです。
なぜ「ドロンします」は使われなくなったのか
では、この遊び心のある言葉がなぜ消えつつあるのでしょうか。
理由はいくつか考えられます。
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忍者を知る世代の減少
共通認識が薄くなれば、笑いとして成立しにくい。 -
フォーマル化の拡大
ビジネスやSNSでの言葉が正確性を求め始めた。 -
合理性重視の現代
無駄に見える言い回しは削られていく。
つまり、
“遊び心が前提で共有できる言葉”は衰退する のです。
これは「ドロンします」に限らず、
昭和の温度感を持つ言葉全般に起きている現象と言えるかもしれません。
まとめ : 言葉が消えるのは寂しい。でも、味がある。
「ドロンします」は、
単に姿を消す、帰るという行為に ユーモアと余白 を与えてくれた言葉でした。
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去り際は“寂しい”時間
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そこに笑いを添える文化
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日本語の粋と遊び心
言葉が時代と共に変化するのは避けられません。
それでも、たまには会話の最後にこう言ってみてもいいのではないでしょうか。
「では私は、この辺でドロンします。」
きっと、少しだけ空気が柔らかくなるはずです。
最後に読者の皆さんへ。
あなたの身近に、まだ 「ドロンします」 を使う人はいますか?
そして、もし今日どこかで使う機会があれば、
それはもう、“昭和の遊び心”を現代に蘇らせる小さな文化の継承なのかもしれません。

