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【絶滅危惧物】昭和の自動車学校の怖い教官|22号車のイイダ先生と18歳の夏

【絶滅危惧物】昭和の自動車学校の怖い教官|22号車のイイダ先生と18歳の夏 【一、思い出の引き出し】

昭和55年の夏。

高校3年生だった私は、地元の自動車学校へ通うことになりました。

6月に18歳になったばかりでしたので、夏休みを利用して入校することができたのです。

当時、私の家には父が運転する軽トラックがありました。

けれど、私はたまに助手席に乗る程度で、車の構造や運転にはまったく興味がありませんでした。

エンジンの仕組みも、クラッチの意味も、ハンドル操作の感覚も、何もわかっていない。

まさに車の知識ゼロの状態で、自動車学校の門をくぐったのです。

昭和55年ごろの日本の地方の自動車学校。教習車が数台並び、夏の明るい日差しの中で、18歳くらいの男子生徒が少し緊張した表情で立っている

今思えば、あの夏は、私にとって初めて「車を運転する怖さ」と、「昭和の教官の怖さ」を同時に知った夏でした。

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担当教官は、22号車のイイダ先生

自動車学校に入校すると、担当の教官が割り振られました。

私の担当は、22号車のイイダ先生。

白髪交じりの、いかにもベテランという雰囲気の先生でした。

今でも「22号車」という番号まで覚えているのですから、よほど強く記憶に残っているのでしょう。

昭和55年ごろの日本の自動車学校の教習車。少し古い国産セダンタイプで、車体に教習車の表示がある

最初に聞かれたのは、こんな言葉でした。

「車を運転したことがあるか?」

私は一瞬、耳を疑いました。

運転免許を取るために自動車学校へ来ているのに、運転したことがあるかと聞かれる。

「ありません」

そう答えると、先生は少し意外そうに言いました。

「今時珍しいな。大概の生徒は運転経験があるんだけどな」

そして、こうも言われました。

「真面目だな」

私は内心、驚きました。

そうなんだ。みんな、どこかで運転したことがあるのか。

もちろん、今の感覚ではとても考えにくい話です。

けれど昭和55年頃、特に地方では、家の車や軽トラックを敷地内や農道で少し動かしたことがある若者もいたのかもしれません。

免許を取る前から、運転経験があることが珍しくない。

その一言だけでも、今とはずいぶん時代が違っていたのだと思います。

あとから聞いた「怖い先生」という評判

入校してしばらくしてから、私はある話を耳にしました。

22号車のイイダ先生は、口が悪くて怒りっぽい。

そんな評判があったのです。

それを聞いた私は、正直震えあがりました。

ただでさえ車の知識も運転経験もありません。

右も左もわからない状態で、怖い教官に当たってしまった。

そう思うだけで、自動車学校へ行く足取りが重くなったものです。

今の自動車学校なら、生徒はお客様という意識が強いでしょう。

受付も教習も、できるだけ丁寧に、やさしく、安心して通えるように配慮されているはずです。

けれど、昭和の頃は違いました。

教官は教える人。生徒は教わる人。

そこには、はっきりした上下関係がありました。

運転を教わるというより、怒られながら覚える。

そんな空気が、まだ普通に残っていた時代だったのです。

「よけいなことするな!」と怒鳴られたハンドル操作

案の定、教習は楽なものではありませんでした。

初めての運転。

ぎこちないハンドル操作。

車の動きに合わせる余裕もなく、私は必要以上にハンドルを握りしめていたのだと思います。

そんな時、横から声が飛びました。

「よけいなことするな!」

「ハンドルを放せ!」

「自然に元に戻るから!」

今でも、その声の感じを覚えています。

車内という狭い空間で、すぐ横から怒鳴られる。

昭和55年ごろの日本の教習車の車内。18歳くらいの男子生徒が緊張した表情でハンドルを握っている。助手席には白髪交じりのベテラン男性教官が座り、厳しい表情で指導している。

逃げ場はありません。

ただでさえ緊張しているところへ、さらに怒られるわけですから、頭の中は真っ白になります。

ハンドルは自然に戻る。

理屈としては、たしかにそうなのかもしれません。

けれど、その時の私にとっては、ハンドルよりも自分の心の方が戻りませんでした。

「また怒られるのではないか」

「自分は運転に向いていないのではないか」

「本当に免許を取れるのだろうか」

教習のたびに、そんな不安が積もっていきました。

それでも通うしかなかった理由

正直、自動車学校へ行きたくない日もありました。

また怒られるのかと思うと、気が重くなる。

教習の時間が近づくたびに、胸の奥がざわざわする。

それでも、やめるわけにはいきませんでした。

親が授業料を払ってくれていました。

そして、就職するには運転免許が必要でした。

昭和の地方で暮らす若者にとって、運転免許は単なる資格ではありません。

社会へ出るための通行手形のようなものでもありました。

免許がないと就職先の選択肢も狭くなる。

仕事に行くにも、生活するにも、車が必要になる。

そういう現実がありました。

だから、嫌でも通うしかなかったのです。

今なら、教官との相性が悪ければ相談することもできるでしょう。

場合によっては担当を替えてもらうこともできるかもしれません。

けれど当時の私は、そんなことを考えもしませんでした。

怒られるのは自分が下手だから。

つらいのは自分が未熟だから。

そう受け止めるしかなかったのです。

仮免、本試験、そして合格

そんな私でしたが、なんとか仮免を取り、本試験にも合格することができました。

追加補習は、たしか2時間くらいだったと思います。

決してすんなり上手くいったわけではありません。

けれど、どうにか免許を取るところまでたどり着きました。

合格した時、イイダ先生が何か褒め言葉を言ってくれたのかもしれません。

けれど、それはもう忘れてしまいました。

覚えているのは、怒鳴られた言葉や、緊張した車内の空気ばかりです。

人間の記憶というのは不思議なものです。

優しい言葉は忘れてしまうのに、怖かった声は何十年経っても残っている。

あれから45年ほど経った今でも、22号車のイイダ先生のことは、はっきり思い出せます。

それだけ、18歳の私にとって強烈な存在だったのでしょう。

昭和55年ごろの日本の自動車学校の夕方。教習を終えた18歳くらいの男子生徒が一人で歩いて帰る後ろ姿。少し疲れているが、どこかほっとした雰囲気

今なら完全にアウト、でも昭和には珍しくなかった

もちろん、今の感覚で見れば、イイダ先生の言動は問題だらけです。

怒鳴る。

萎縮させる。

不安にさせる。

それで運転が上手くなるかと言えば、むしろ逆効果だった面もあるでしょう。

今なら、指導方法としてかなり厳しく見られるはずです。

けれど昭和の頃は、学校でも、部活でも、職場でも、そういう大人が普通にいました。

怖い先生。

怒鳴る上司。

口の悪い職人。

そして、厳しい教官。

「それが当たり前」とまでは言いません。

けれど、少なくとも今よりはずっと、そういう指導が許されていた時代でした。

厳しくされることが、本人のためになる。

怒鳴られて覚えるのが当然。

若い者は黙って耐えるもの。

そんな空気が、社会のあちこちに残っていました。

今振り返れば、あれは良い時代だったとは簡単には言えません。

ただ、そういう時代を通ってきたのも事実なのです。

怖かった教官が残していったもの

では、イイダ先生に感謝しているのかと聞かれると、正直少し困ります。

「あの厳しさのおかげで今がある」と、きれいにまとめるつもりはありません。

怖かったものは怖かった。

行きたくなかった日は、本当に行きたくなかった。

怒られるたびに、自分はダメなのではないかと落ち込みました。

けれど、45年経った今でも、私はゴールド免許を更新しています。

もちろん、それがイイダ先生のおかげだけだとは思いません。

ただ、運転というものは甘く見てはいけない。

車は便利だけれど、人を傷つける力もある。

ハンドルを握る以上、緊張感を忘れてはいけない。

そういう感覚のどこかには、あの頃の教習所で植えつけられたものもあるのかもしれません。

怒鳴られながら覚えた運転。

決して楽しい思い出ではありません。

それでも、忘れられない記憶として、今も自分の中に残っています。

自動車学校は、いつの間にか変わった

今の自動車学校は、昭和の頃とはずいぶん違うようです。

生徒に対する言葉遣いも丁寧になり、教習もわかりやすく、安心して学べる環境が整えられていると聞きます。

少子化で免許を取る若者も減り、自動車学校にとって生徒は大切なお客様になりました。

かつてのように、教官が一方的に怒鳴りつけるような教え方は、もう通用しないでしょう。

それは良い変化だと思います。

運転を学ぶ場は、本来、恐怖で押さえつける場所ではなく、安全に運転できるようになるための場所です。

怖くて萎縮するより、きちんと理解して身につける方が、よほど大切です。

けれど一方で、あの昭和の自動車学校の空気は、もう戻ってこないものでもあります。

22号車。

白髪交じりのベテラン教官。

横から飛んでくる怒鳴り声。

帰り道の重たい気分。

そして、それでも免許を取らなければならなかった18歳の夏。

あれは、昭和という時代の一場面だったのだと思います。

まとめ|怖かった教習所も、昭和という時代の一部だった

昭和55年、18歳の夏。

車の知識も運転経験もないまま入った自動車学校で、私は22号車のイイダ先生に出会いました。

口が悪く、怒りっぽく、今なら問題になるような教え方だったと思います。

けれど、当時の自動車学校には、そうした怖い教官が珍しくありませんでした。

怒られながら覚える。

萎縮しながら通う。

それでも、免許を取るために耐える。

そんな時代が、確かにありました。

今の感覚では、とても肯定できない部分もあります。

けれど、その記憶をなかったことにはできません。

怖かった教習所も、怒鳴る教官も、就職には免許が必要だった現実も、すべて昭和という時代の空気の中にありました。

45年経った今でも、22号車のイイダ先生の声は、どこか耳に残っています。

もう二度と戻らない、けれど忘れられない。

昭和の自動車学校は、そんな少し苦い記憶として、今も心の中に残っているのです。

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