「ゴリゴリ……」
小学校の机のそばで聞いた、あの音を覚えていますか。
手動式の鉛筆削り器は、ただ鉛筆を尖らせるための道具ではありませんでした。
それは、これから始まる「勉強」や「作業」に向けて、心を静かに整えるための合図のような存在でした。
ハンドルを回すと、手に伝わる確かな抵抗。
力を入れすぎれば芯が折れ、弱すぎれば削れない。
その微妙な加減を、指先と耳で確かめながら、ゆっくりと回す時間。
その間に、
さっきまで頭に残っていた遊びの気配は薄れ、
机に向かうための気持ちが、少しずつ前に出てきます。
削り終えたあと、
ケースの中に溜まった削りカスを見て、
「今日は削りすぎたな」
「ちょうどいい具合だ」
そんなことを、無意識に感じ取っていたはずです。
便利さが当たり前になった今、
この「削る時間」は、ほとんど語られなくなりました。
けれど、手動式の鉛筆削り器が教えてくれていたのは、
集中とは、突然始まるものではなく、準備によって生まれるものだ
という、ごく当たり前で、けれど大切な感覚だったのかもしれません。

音と抵抗が、心を静かに整えていた
電動の鉛筆削りや、
シャープペンシルが当たり前になった今。
削るという行為は、
ほとんど意識されなくなりました。
けれど、手動式の鉛筆削り器には、
必ず「音」と「抵抗」がありました。
一定のリズムで響くゴリゴリ音。
ハンドルを回すたびに伝わる、微妙な重さ。
そのすべてが、
「今は準備の時間だ」と、
体に知らせてくれていたように思います。
何かを始める前に、
無言で心を整える時間。
便利さとは引き換えに、
いつの間にか失ってしまった感覚かもしれません。
削りカスが語っていたもの
削り終えたあと、
透明なケースの中を、そっと覗く。
山のように溜まった削りカスを見て、
「削りすぎたな」と思ったことはありませんか。
逆に、
ほんの少しだけ溜まっていると、
「今日はうまくできた」と、
なぜか嬉しくなったりもしました。
削りカスは、
削った量だけでなく、
そのときの集中や加減を、
正直に映していました。
結果だけが残るのではなく、
過程がそのまま形になる。
それもまた、
手動式の鉛筆削り器が教えてくれていたことの一つです。
教室の片隅にあった、小さな社会
学校では、
鉛筆削り器は「みんなのもの」でした。
教室の隅や、廊下の一角。
休み時間になると、
自然と小さな列ができる。
長く回しすぎない。
次の人のことを考える。
削りカスが溜まっていたら、捨てる。
誰かに教えられたわけではありません。
けれど、その場の空気の中で、
道具との付き合い方や、
他人への配慮を覚えていきました。
今のように、
すべてが個人専用で完結する世界とは、
少し違う時間が、そこには流れていました。
手間があったから、集中できた
手動式の鉛筆削り器は、
決して効率的な道具ではありません。
時間もかかるし、
力加減も必要です。
けれど、その「手間」こそが、
集中を生み出していました。
何かを始める前に、
一度立ち止まり、
手を動かし、
音を聞き、
気持ちを整える。
その一連の流れが、
自然と心を勉強に向かわせていたのです。
失われつつある「準備の時間」
便利になった今、
準備は省略されがちです。
すぐ書ける。
すぐ始められる。
すぐ終わる。
それは確かに、楽なことです。
けれど、
何かを始める前の静かな時間がなくなったことで、
集中する力まで、
薄れてはいないでしょうか。
ゴリゴリという音と、
手に伝わるあの抵抗。
あれは、
「集中は、作るものだ」
ということを、
体で教えてくれていたのだと思います。
まとめ
――ゴリゴリ音の向こうにあったもの
手動式の鉛筆削り器は、
単なる文房具ではありませんでした。
それは、
学びに向かう心を整え、
手加減を覚え、
静かに集中へ導くための、
小さな相棒だったのです。
もし今、
引き出しの奥から、
あの鉛筆削り器が出てきたら。
一度、ゆっくり、
ハンドルを回してみてください。
ゴリゴリという音の向こうに、
かつての静かな集中の時間が、
きっと戻ってくるはずです。

