「暗証番号」は誰しも知っている言葉ですが、初めてその言葉と出会った頃の苦い思い出を振り返ってみます。
都会の春と、初めての通帳
昭和56年の春。高校を卒業してすぐに親元を離れ、慣れない都会で就職したばかりの私を待っていたのは、すべてが「初めて」の連続でした。
当時の給料は、今では当たり前の「銀行振込」へと切り替わりつつある時期でした。右も左もわからない私は、下宿先のおばさんに手伝ってもらい、生まれて初めての自分専用の銀行口座を開設することになりました。
その際、おばさんからこう聞かれたのです。 「暗証番号、4桁どうする?」
今でこそセキュリティの要である「暗証番号」ですが、当時の私にとっては、それが何のための数字なのか、どれほど重要なものなのか、全くピンときていませんでした。
私は深く考えもせず、適当に思いついた4つの数字を答え、手続きを済ませてしまったのです。
給料日、デパートのATMという「戦場」
待ちに待った初めての給料日。給料明細書に印字された数字を見て、ようやく社会人の仲間入りをした実感が湧きました。
さっそく現金をおろそうと、デパートの一角に設置されたATMへと向かいました。当時のATMは今ほど数が多くなく、給料日ともなれば長蛇の列ができるのが当たり前。私の後ろにも、多くの人が並んでいました。
いよいよ自分の番が回ってきました。機械に通帳とキャッシュカードを差し込みます。すると画面に表示されたのは、あの言葉でした。
「暗証番号を入力してください」
その瞬間、私は固まってしまいました。
「暗証番号??……なんだっけ、それ」。
下宿のおばさんに聞かれ、言ったはずのあの数字どころか、そのこと自体思い出せませんでした。

三回連続のミスと、受話器越しの無力感
後ろにはイライラと順番を待つ人々の視線を感じます。焦れば焦るほど、頭の中は真っ白になります。 「そうだ、口座番号の下4桁かもしれない!」 藁にもすがる思いで打ち込みますが、エラー。当然です。
今思えば、そこで諦めて列を離れればよかったのですが、パニックに陥った私は、当てずっぽうに数字を打ち続けてしまいました。そして3回。
無情にも「このカードは現在ご利用いただけません」という表示が出ました。
絶望的な気持ちで、ATMの横に備え付けられていた受話器を取り、銀行の担当者に連絡しました。
「あの、暗証番号がわからないんですけど……」
電話の向こうの担当者は、困惑したような、それでいてどこか冷ややかな声で答えました。
「申し訳ございませんが、お電話ではお教えできません。後日、窓口へお越しください」
私は冷や汗を拭いながら、行列の脇を通り抜け、逃げるようにその場を去りました。初めての給料を手にする喜びは、一瞬にして苦い恥ずかしさへと変わってしまったのです。
窓口の温もりと、デジタルへの苦手意識
それ以来、私はATMという機械に対して、強烈な苦手意識を抱くようになりました。
結局、私はその後しばらくの間、わざわざ手間をかけてでも、銀行の「窓口」でお金をおろすようになりました。
伝票に金額を書き込み、印鑑を押し、窓口の行員さんとやり取りをする。そのアナログな手続きのほうが、当時の私にとってはよほど安心できるものだったのです。
あれから四十数年。今や暗証番号どころか、顔認証や指紋認証で指一本でお金が動く時代になりました。便利な世の中にはなりましたが、あのデパートのATMの前で、自分の記憶力のなさと機械の無機質さに打ちのめされた昭和56年の記憶は、今でも私の「引き出し」の奥底に、冷や汗の感触と共に残っています。
「なんだかんだ」と言いながら、あの不器用だった自分を愛おしく思えるのは、私がそれなりの年月を重ねてきた証拠なのかもしれません。
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