「まがいなりにも努力しました」
「まがいなりにも大学を出ているので」
……こうした言い方、実は少し間違いなんです。
正しい形は「まがりなりにも」。
一文字違うだけで、意味も成り立ちも異なります。
この記事では、「まがりなりにも」という言葉の正しい意味と使い方、
そして、なぜ「まがいなりにも」と誤用されやすいのかを、
日本語の成り立ちから分かりやすく解説します。
「まがりなりにも」の正しい意味
「まがりなりにも」とは、
「完全ではないが、なんとか」「一応」「形だけでも」という意味を持つ副詞です。
この言葉の核心にあるのは、
「理想には届かないけれど、最低限のかたちを保っている」
という、不完全さを受け入れた上での誠実さです。
たとえば次のように使われます。
・まがりなりにも責任者を務めています。
・まがりなりにもプロとしてやっている以上、妥協はできない。
・まがりなりにも卒業した学校なので、思い入れがあります。
これらの文に共通しているのは、
“自分の立場や努力を過大評価せず、控えめに述べる”という姿勢です。
つまり、自分を下げることで誠実さを伝える言葉なのです。
この「控えめな主張」こそが、「まがりなりにも」が長く使われてきた理由と言えます。
「まがりなりにも」は“ギリギリ成り立っている”という感覚
「まがり」という言葉には、「曲がっている」「ねじれている」といった意味があります。
つまり、真っすぐでも完璧でもない。
けれども、それでも“何とか形になっている”状態。
そこに「なりにも(=〜であるとしても)」が続くことで、
「曲がっていようとも、形としては成り立っている」
という意味が生まれます。
この語感には、「足りないけれど、あきらめずに形を保つ」
という、どこか健気で人間らしい響きがあります。
「謙遜と責任感」を両立する日本語
「まがりなりにも」は、単なる謙遜表現ではありません。
むしろ、不完全さを認めながらも、責任を果たそうとする意思を含みます。
「まがりなりにも先生をしているので、生徒の前では言葉に気をつけます」
このような使い方では、
“完璧な教師ではないけれど、自分の立場を意識している”という
誠実な心構えが伝わります。
謙虚でありながら、逃げない。
それが「まがりなりにも」という言葉の持つ、日本語らしいバランスなのです。
このように、「まがりなりにも」は単なる“言い回し”ではなく、
自分の未熟さを認めつつ、それでも歩みを止めない人の姿勢を映す言葉だと言えます。
語源:「まがり」=“曲がっているが、続いている”
「まがりなりにも」の「まがり」は、
動詞の 「曲がる(まがる)」 から派生した言葉です。
もともと「曲がる」は、
“真っすぐでない”“歪んでいる”という物理的な状態を表す言葉でした。
しかし日本語では、単に形のことだけでなく、
心や状況、ものごとの成り立ちにも使われるようになっていきます。
たとえば、
「道が曲がる」だけでなく「話が曲がる」「性根が曲がる」
といった具合に、
「まっすぐでない=理想や本筋から少し外れている」ことを含む言葉です。
「まがり」は“未完成でもつながっている”という感覚
「まがりなりにも」の「まがり」には、
“途中で折れながらも、途切れず続いている”という
持続のニュアンスが込められています。
つまり、「まがり」とは完全ではないけれど、
“まだそこに在る”という状態。
だからこそ「まがりなりにも」は、
「理想からは外れているけれど、なんとか形を保っている」
という意味をもつのです。
この「曲がりながらも続く」という発想には、
日本語特有の柔軟さ——不完全さを受け入れる美意識が感じられます。
「なりにも」が加わって生まれる“控えめな肯定”
「なりにも」は、助動詞「なり(=〜である)」に副助詞「にも」が付いた形。
「〜であっても」「〜であるとしても」という意味になります。
つまり、「まがりなりにも」は直訳すると、
「曲がっている形であっても」
ということ。
そこから転じて、
「理想的ではないが、一応その形にはなっている」
という控えめな肯定表現として使われるようになりました。
この構造には、
「欠点を認めながらも、それを受け入れて前へ進む」という
日本語らしい“謙遜の哲学”がにじんでいます。
“曲がっても折れない”という語感のたくましさ
興味深いのは、「まがり」が否定的なようでいて、
どこか前向きな響きを持っていることです。
たとえば竹のように、風に吹かれてしなるけれど折れない。
そんな“しなやかな強さ”が「まがり」という語感には宿っています。
そのため「まがりなりにも」は、
「完璧ではないけれど、折れずに立っている」——
そんな人間らしいたくましさを感じさせる表現なのです。
このように、「まがりなりにも」は
単なる「一応」「なんとか」という軽い表現ではなく、
“曲がりながらも続ける”という
生き方の比喩を含んだ言葉なのです。
誤った使い方に注意:「まがいなりにも」は間違い
ここでよく混同されるのが、
誤って使われることの多い 「まがいなりにも」 という形です。
結論から言えば、
「まがいなりにも」は本来存在しない誤用表現であり、
正しい形はあくまで「まがりなりにも」です。
「まがり」と「まがい」は似て非なるもの
混乱の原因は、「まがい」という言葉が
すでに別の意味を持つ独立語として存在するためです。
| 語 | 語源 | 意味 | ニュアンス |
|---|---|---|---|
| まがり | 動詞「曲がる」 | まっすぐでないが続いている | 不完全ながらも維持されている |
| まがい | 動詞「まがう(紛う)」 | 似せる・偽物である | 本物ではない・まやかし |
つまり「まがり」は曲線的な未完成さを表し、
「まがい」は偽物としての不正確さを指します。
語感は似ていますが、意味の方向はまったく逆なのです。
「まがいもの」と混同しやすい理由
「まがいなりにも」は、おそらく「まがいもの」という言葉との混同から広まったと考えられます。
「まがいもの」=似ているが偽物
「まがいなりにも」→“似せた形ではあるが”と誤解されやすい
しかし、「まがりなりにも」はもともと
“まっすぐではないけれど、成り立っている”という意味で、
似せる・偽るとはまったく異なる価値観の言葉です。
「まがり」は「不完全ながらも真実に近い」、
「まがい」は「似せて作った虚構に近い」。
ここに大きな違いがあります。
● 言葉の混乱が生まれた背景
現代では、発音上「まがり」と「まがい」がどちらも柔らかく聞こえるため、
日常会話では違いが曖昧になってきています。
特に「まがりなりにも」は古めの表現であり、
話し言葉では「まがいなりにも」と誤って言う人が増えています。
たとえば——
✖ まがいなりにも努力しました。
〇 まがりなりにも努力しました。
文字にすれば一目瞭然ですが、
耳で聞くと「まがり/まがい」の違いは微妙。
それが誤用拡大の一因です。
「まがい」と「まがり」——本質の違い
「まがりなりにも」は、“曲がっても折れない”という誠実な努力を表す言葉。
一方、「まがい」は“本物に似せた偽物”という欺きの性質を持つ言葉。
したがって「まがいなりにも」は、
字義的には「偽物としても〜だ」という意味になってしまい、
意図とは真逆の表現になってしまうのです。
正しい形を選ぶことの大切さ
日本語には「音が似ていても意味が真逆」というペアが少なくありません。
「まがり」と「まがい」もその一つ。
たった一音の違いですが、
そこに込められる意味の世界はまるで違います。
「まがりなりにも」は、“誠実な努力の証”
「まがいなりにも」は、“存在しない誤った言い回し”
丁寧に言葉を選ぶことは、
自分の思いを正しく伝えることにつながります。
そしてそれは、まさに「まがりなりにも」——
不完全でも誠実であろうとする心そのものなのです。
使い方とニュアンス
「まがりなりにも」は、
自分の立場や努力を控えめに表現したいときに使われる、謙遜の副詞句です。
本来の意味は「完璧ではないが、一応」「不十分ながらも何とか」というもの。
つまり、自分の力を過信せずに、最低限の責任や誠意を示すときに使うのが自然です。
自分をへりくだりながら、立場を守る言葉
たとえば次のような言い回しがあります。
・まがりなりにも先生をしているので、言葉には気をつけています。
・まがりなりにも社会人ですから、遅刻はできません。
・まがりなりにもリーダーという立場上、判断を任せられます。
どの文も共通しているのは、
「自分の立場を誇るのではなく、その立場を全うしようとする謙虚な意志」が見えることです。
「まがりなりにも」は、
“自分を下げながら責任を果たす”という、日本語特有の礼節を表現する言葉なのです。
“誇り”と“控えめさ”の両立
「まがりなりにも」は、単なる自己卑下ではありません。
「未熟だけれど、それでも精一杯やっている」という誇りと誠実さを両立する表現です。
・まがりなりにもプロですから、いい加減な仕事はできません。
このように使うと、
「完璧ではないけれど、最低限のプロ意識は持っています」という
控えめな自負を伝えられます。
つまり、謙遜の裏には“責任感”があり、
「まがりなりにも」はその両面をちょうどよく表現する日本語なのです。
丁寧ながら、やや硬めの印象
この言葉は、会話でも使えますが、
どちらかといえば文語的・ややかしこまった響きがあります。
ビジネスメールやスピーチなど、
少し改まった場面で用いると、誠実で落ち着いた印象を与えます。
・まがりなりにもこのプロジェクトを任されております。
・まがりなりにも創業者の一人として申し上げますと…。
一方で、カジュアルな会話では少し硬く感じられるため、
親しい場では「一応」「それなりに」などに置き換えると自然です。
言葉のトーンをやわらげる効果
「まがりなりにも」は、文のトゲをやわらげるクッションとしても使えます。
・まがりなりにも説明はしましたが、まだ伝わっていないようです。
このように使うと、
ストレートに言うよりも柔らかく聞こえ、相手を責めない印象になります。
強すぎず、弱すぎず、ちょうどいい距離感を保てるのも、
この言葉の魅力の一つです。
“人柄”がにじむ表現
「まがりなりにも」という言葉を選ぶ人には、
往々にして「誠実」「控えめ」「柔らかい主張」という印象が生まれます。
それは、この言葉自体が「完璧さ」を求めるのではなく、
「努力している姿」を尊重する日本語だからです。
つまり、「まがりなりにも」は
“結果よりも過程を大切にする”日本人の美意識を表した言葉とも言えます。
このように整理すると、「まがりなりにも」は単なる副詞ではなく、
謙虚さ・誠実さ・控えめな自負を絶妙に同居させた、奥行きのある表現です。
現代での使われ方
かつてはやや改まった印象を持つ「まがりなりにも」ですが、
現代では日常会話やSNSの中でも、少しユーモラスな響きをもって使われるようになってきました。
SNSや会話での「まがりなりにも」
最近では、自己紹介や近況報告の中で、
自分をちょっと笑いながら語るような場面でよく見かけます。
・まがりなりにも社会人10年目です。
・まがりなりにも料理男子なので、焦げずにできました。
・まがりなりにもブロガーなので、文の誤字は気になります。
このように使われる「まがりなりにも」は、
本来の謙遜の意味を残しつつ、自分ツッコミ的な軽さを帯びています。
「完璧ではないけれど、それなりにやってますよ」という
控えめな自己肯定のニュアンスがあり、
聞く人の肩の力を抜かせるような柔らかいユーモアが感じられます。
硬い言葉から“親しみのある照れ笑い”へ
昭和の頃までは、「まがりなりにも」はビジネス文書やスピーチなど、
かしこまった場面で使う印象の強い言葉でした。
しかし現代では、少し古風であるがゆえに、
逆に「親しみ」や「味わい」を感じさせる言葉として、
あえて日常の軽い話題で使われるケースも増えています。
たとえばSNSの投稿やブログなどで、
「まがりなりにも健康を意識して、今日は階段で5階まで上がりました」
といった具合に、自分を茶化しながら前向きに語る表現として用いられるのです。
このような使い方には、
「ちょっと自信がないけど、それでも頑張ってるよ」という
現代人らしい“等身大のユーモア”がにじんでいます。
会話をやわらげる“クッションことば”として
また、職場や日常会話の中では、
ストレートに言いにくい場面をやわらげるクッションことばとしても使われています。
・まがりなりにも関係者ですので、確認しておきますね。
・まがりなりにも経験者なので、少し意見を言わせてください。
このように添えることで、
相手への遠慮や謙遜を示しつつ、自分の意見をスムーズに伝えることができます。
つまり、「まがりなりにも」は
**「やんわりと主張するためのバランサー」**としての機能も果たしているのです。
言葉が生き続ける理由
現代においても、「まがりなりにも」が廃れずに残っているのは、
その中にある「柔らかな誠実さ」が、今の時代にも求められているからでしょう。
完璧さよりも“誠実な努力”が重視される社会の中で、
「まがりなりにも」という言葉は、
自分の等身大を認めながら前を向く人のことばとして、
再び息を吹き返しているのです。
まとめ:「不完全でも誠実であろうとする言葉」
「まがりなりにも」は、
決して完璧を誇るための言葉ではありません。
むしろ、足りなさを認めたうえで、それでも努力を続ける心を表した言葉です。
まっすぐでなくても、理想から少し外れていても——
「まがりなりにも」その形を保ち、責任を果たそうとする。
そこには、日本語らしい誠実さと謙虚さが息づいています。
現代では、SNSなどで少しユーモラスに使われることも増えていますが、
根底にあるのはやはり、
「不完全でも自分なりに頑張っている」という
人間らしい温かさです。
完璧を求めるよりも、
“曲がりながらも進み続ける”ことの価値を教えてくれる言葉。
それが、「まがりなりにも」。
まっすぐでなくてもいい。
少し曲がっていても、歩みを止めないこと。
それこそが、まがりなりにも生きるということ——。

